Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

私は思い出というものが嫌いで、過去はできるだけ忘れ去りたいとずっと思ってきました。だから過去に撮った写真を整理してアルバムを作る、なんてことはもっともやりたくないことの一つだったのですが、親の家を整理したときにごっそり出てきたアルバムを全部捨てるのはしのびなく、何冊かを持ち帰りました。いや、正確に言うと30冊ほども持ち帰ったのです。
このブログでも何枚かをアップしましたが、明治から大正、昭和初期にかけての曽祖父母、祖父母たちの記念写真は、やはり残しておかねばならないだろう、と一種の義務感をおぼえて保管しています。デジタル化もしました。気候変動の時代にあって、残しておく媒体は何種類かあったほうがいいだろうという判断からです。
しかし、自分の写真はいらない。残しておきたくない。
小中高時代の自分は、見るのもいやだ。
大学生時代の自分は、おぞましいと目をそむけたくなる。
たぶん楽しいこともいっぱいあったし、幼児期から思春期まできっと幸せな時間を過ごしたのだと思うのですが、 写真を見ると、記憶から拭い去りたいと思っていた「思い出」がよみがえってしまうのです。おそらく、当時は「こうありたい自分」「こんな風になっていきたい将来像」と現実の自分とがものすごく乖離していて、それにいらだっていたのだと大人になった自分は推測します。写真を見る現実を思い知らされる。
でも、当時の写真をいま見ると、決してかわいくないことはないのに、10代から20代はじめまで、私はずーっと自分のことをブスで、デブで、スタイルが今風でなくて、頭悪くて、センス悪くて、不器用で、運動神経ゼロで、おっちょこちょいで、何をやってもヘマばっかりで、かっこ悪いと思っていました。思い込んでいた、といったほうがいい。
コンプレックスの塊。
何をやっても自信がなくて、自信がないからおどおどしてまわりをうかがってばかりで、堂々と胸がはれない。そういう女の子はかわいくない。だからモテない。異性から声がかからないから、もっと自信を喪失するという悪循環。
目立ちたいのに、目立つことがこわい。
いつも「私なんて、私なんて……ぜんぜんダメ」と思い、そんなことを平気で口に出し(ある意味傲慢です)、そのくせ「そんなことないよ!」と誰かが言ってくれるのを必死に待っている。(誰も言うわけがない)
今思うと、自我が確立していなかったんですね。

でも、いつの間にか、根拠がないかもしれないが、自分に自信が持てるようになりました。
他人から何かを言われても、でも私は私だから、と胸をはって笑えるようになりました。
歳はとるもんですね。もうしょうがないじゃない、これが私なんだから、と吹っ切れるのです。
吹っ切れてようやく、自我が確立されたと言えるのかもしれません。
吹っ切れたあとからの出来事は、記憶に残しておきたいことがいっぱいあります。意図的に記憶に残している思い出をたぐりよせると、吹っ切れたときがわかるかもしれない。
吹っ切れたあとの楽しかったこと、印象深かったこと、出会ったすてきな人たちや言葉、全部記憶に残しておきたい。
それどころか穴入り赤面ものの失敗も、投げかけられた罵倒や投げかけた罵倒も、記憶に残したい。
(それでも自分の画像は残さんでいいけれど)

そこで思います。いったい いつから吹っ切れたのだろう?
思い出嫌いとして封印していたから、思い出せない。 

このところ、締め切りが続きます。締め切りが明日、というとき、私は逃避の読書に走ってしまうとってもいけない性癖があります。
いま、目の前にある仕事とはまったく関係のない本に逃避して、なかなか戻ってこない。
この本読むことで、目が疲れて、体力が奪われて原稿が書けなくなるだろう?(自分に言い聞かせている)
ただただ時間がずるずるすぎていくだけで、 ますます自分の首を絞めることになるだろう?
わかってる、わかっているけれどね、あともう1ページだけ許して!(100%、あと100ページ読み終わるまで本を閉じないことは目に見えている)
この章を読み終わったら、ぜったいに本を閉じる、と言い聞かせているのに、気づくともうつぎの章に入っている。
(登場人物の)この人がどうなるか見えてきたらやめよう……読み終わるまで見えてこないことが自分でもわかっている。
だから長編はダメだ。短編小説だけにしよう……でも結局1冊読み終えるまで本は閉じられない。
で、ここんところの逃避で読んじゃった本をあげておきます(いや、そんなことしている場合じゃないだろう?>自分)
「老後の資金がありません」垣谷美雨(垣谷さんの本はどれも逃避中には決してページを開いてはいけない、とよーくよーくわかっているのに)
「アフリカを見る、アフリカから見る」白戸圭一(新書だし、ビジネスと政治の話だし、きっとこれなら大丈夫、数ページ読んだら仕事に戻れると思ったのに、予想外のおもしろさで結局読み終わってしまった。あーーーアフリカ行きたーい!!! あ、いかんいかん、アフリカの本をポチりかねない)
「東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ」辻原登(これまたきっとすぐに本を閉じられる、と思って読み始めたら、なに、これ、終わらないじゃない! 辻原さん、文学論も小説並みにおもしろいのか。本棚にずらっとならぶ谷崎(→大ファン)の文庫本に目がいかないようにするのに苦労した)
でもって今朝は「ボーダー 二つの世界」ヨン アイヴィ デリンドクヴィストをさっき読み終わったところ。もうね、書評しますよ、この本は。すごい本でしたよ、すごい小説でしたよ、すごい世界観でしたよ、これは。映画がいま公開中なんだけれど、ぜひとも見なくちゃ。ひさびさに出会った興奮の本でした。

というわけで、まだ原稿がぜーーんぜん進んでいない。
締め切りは目の前だ。
 

 えーっと(ちょっと照れてる)、先日、無事に書道、漢字部門で師範になりました。
 1年に1回行われる昇段級試験を受け始めて11年目です。まあまあ早いほうかな。試験を受け始めるときに「師範にたどりつくまで最低10年かかる」と言われていたから、11年なら早いほうなんだと思います。
 この11年間、毎月一度も欠かさずに課題を提出してきたことが自慢です。仕事の締め切りとの戦いで徹夜が続いても、父が亡くなる前後の嵐のような月日の間も、娘と1歳児と同居していた時期も、次女が里帰り出産していた時期も、海外に出かけていても、とにかく、毎月の課題は提出していたことが、11年目の師範試験合格につながったのだと密かに自分をほめています。
 課題提出もですが、2ヶ月に及ぶ試験の準備も、年2回の作品展への応募も「あー、もう無理かも」と休みたくなり、投げ出したくなる誘惑にかられることが何回もありました。そのたびに自分に言い聞かせたのが「言い訳を探さない」ということです。
 言い訳はいっぱい作れるのです。
「たかが趣味でしょ? そんなに無理してからだを壊すなんてバカみたい」
「仕事が忙しすぎる。優先すべきは仕事の締め切りでしょ?」
「子守りにおさんどんに親介護、その上書道まで、そりゃ時間が足りないわ」
「ちょっと休んだって大丈夫。人生長いんだから、時間ができたときにやればいいじゃないか」
「休んだって誰かに迷惑をかけるわけじゃなし、むしろ続けるほうがまわりに迷惑かも」
 そういう言い訳を自分に許さない、とまなじり決して無理したわけでは、実はないのです。
 筆を持つことは、私にとって大きな癒しです。癒しっていう言葉は嫌いだけれど、でも、癒しとしかいいようがない。紙を広げて、墨を筆にふくませながら、これからどんな言葉を、どういう風に書こうかなと考えるのは、私にとって心が豊かになる時間でした。
 仕事を終えて、家族が寝静まり、深夜に毛氈広げて筆持つ時間がどれだけ私をなぐさめてくれたか。精神的に追い詰められ、感情が乱れているときに書いた作品は決してよい出来ではなかったけれど、それでも筆を持って書いていくうちに、少しずつ気持ちが鎮まってくることが何度もありました。それに「今週も筆を持てた」「今月も課題を出せた」ということが、自信にもつながりました。
 いま思うと、この11年間、課題と作品を出し続けられるように、健康に気を配り、時間とお金をやりくりするようになったのも収穫です。太極拳を始めたのは、書道の作品制作で腰痛になったことがきっかけでしたが、書道の先生に「からだの使い方がわかってきたね」と言われるようになっただけでなく、腰痛や肩こりに悩まされることがなくなりました。飲みに行ったり、テレビの前でだらだら過ごすことも少なくなりました。
 「師範、合格したよ」と昨日娘たちに自慢したら、長女から「こつこつがんばりつづけた結果だね。休むことなく、投げ出すことなく、続けていくのがママのすごいところだよ」と褒められました。一番うれしいお祝いの言葉だったかな。
 でも、先生に言われたとおり、師範合格はやっとスタート台に立った、と言うだけです。
 ここからようやく本格的な精進の日々が続いていきます。
 これからも言い訳なしで多少無理をしながら、楽しく筆を持ち続け、いま以上に豊かな時間を過ごしていきたいです。 

台風15号、19号の被害にあわれた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
台風19号の被害の甚大さは、日が経つにつれてあきらかになっていき、報道を見て言葉を失っています。
実は我が家も台風15号で半地下のガレージが浸水しました。短時間に大量の雨が降ったために、排水ポンプが作動しなくなり、逆に排水溝から下水が逆流してきてたちまち浸水しました。直後は地下に入ることさえできない状態。数日後にだいぶ水が引いて中に入れるまでになってから、長靴をはいて、泥水をかきだし、なんとか自力復旧をしたのですが、「被害」はそこにとどまりませんでした。
台風から1週間後に家の1階のクローゼットの整理をしていたら、服やカバンがものの見事にカビだらけになっていることを発見。玄関をあけたとたんになんともいえない異臭が漂っているので、何が原因かと思っていたら「カビ」でした。たった1週間で、喪服が真っ白になるほどのカビで、やむなくたくさんの服をクリーニングに出しました。環境保護のためにクリーニングは最低限にしているのに、今回はしょうがない。洗濯もクリーニングもきかず、泣く泣く処分せざるを得ない靴やカバン、服などもあり、家が浸水するとこんなこともあるのだとやっとわかりました。
でも、こんなのは本当にかるーーーーい被害です。 そもそも被害なんて言えないほどです。
しかし、私はやっと、浸水の被害にあわれて家の中が泥だらけになった方々のたいへんさが、すこーーーしだけ想像できるようになりました。 
情けないことに私は、自分が何らかの「被害」 を経験しないと、深刻な被害を受けられた方に対する想像力が働かない。「たいへんだねー」と他人事で終わってしまう。
そして今回思ったのは、これからつぎからつぎへともっとすごい天災が遅いかかってきて、明日にももっと大きな被害を経験することになる可能性がたいへんに高いということです。
他人事じゃない。うちは大丈夫だ、ではまったくない。自分がどんな天災(多くは人災なんだけれど)にあうかということについて想像力を思いっきり働かせ、どうすれば自分を、そしてともに暮らす地域の人たちと協力しあって守っていけるかを考えていかなくちゃいけない。
明日じゃ間に合わない。
今日からやらなくちゃ。

今、ちょっと立ち直れないので、しばらくガンバのことを当ブログでは封印します。
26日の決勝チケット、どうしよう。
 

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